TEO Side Story TEO Side Story
last updated 1997/09/17

第125話(全130話)

バアグ(1/5)




6 バアグ

「ねえ、マスター?」
 マリカが声をかける。けれど、その声は自分の耳にも音として聞こえてこない。闇は光も音
も発せられると同時に消滅させてしまっていた。歩く方向もわからない。マリカはただ足を交
互に動かしているだけで、じつはずっと同じ場所から移動していないのじゃないかと思った。
次の瞬間には、自分がゆっくりと後ろ向きに倒れて行くような感覚が襲った。真っ暗闇は前後
も左右も上下の感覚も、マリカから奪って行った。
 何だか気持ちが悪い。
 頭の中でガリガリガリと嫌な雑音が響いている。闇があたしの正気まで奪って行く。マリカ
は恐れおののいた。自分が消えてしまいそうな気がした。赤い髪も体も心も、闇に吸い取られ
てしまう。消えてしまう。自分と言う存在が、ただ闇の黒い点になってしまう。そんな恐怖が
マリカを突然に襲った。
 人は完全な闇の中で真っ直ぐに立っていることはできない。人の心は完全な闇の中で平行を
保ち続けることはできない。完全な真っ暗闇はマリカをものすごい重量で押しつぶそうとして
いた。
 マリカは悲鳴を上げた。怖くて悲鳴を上げるなんて、三才の時にバアグの夢を見たとき以来
だった。声を限りに絶叫し、叫びと一緒にマリカは正気まで吐き出そうとしていた。彼女が彼
女であり続けるための、ただひとつのより所が、闇に吸い取られようとしていた。
 しかし隣を歩くマスターの手が、マリカを放さなかった。彼女が自分を見失って行くのを必
死に食い止めていた。マリカは自分の手を強く確かに握りつめていてくれる手の暖かさに気づ
く。だが奇妙なことに闇の中で握るマスターの手が、ある瞬間に機械の手ではなくなったよう
に思えた。それは鉄の堅さと冷たさを持つ三本指のフィンガー・アームではなくなっている。
五本の指を持ち、マリカの手よりは堅いけれど、それでも柔らかさとぬくもりを持つ「人間の
手」のような感触だ。
 完全な闇は人間の五感を麻痺させる。と剣の師ナッツ卿から聞いた覚えがある。この闇がた
ったひとりで進むあたしの五感を麻痺させたのかもしれない。マリカはそう思った。回路不良
の機械と共に歩いているのではなく、人間の、男性の、手を握っているのだと錯覚することで
、心は平行を保とうとしているのかもしれない。
 そう思った。
 けれど、そうではなかった。
 闇の遠くにちいさな光が射してきた。それはさながら夜空の中心にある星のようだった。星
と星との間に横たわる広大な闇の中から、天空に輝くたったひとつの星を目指して登って行く
。マリカはそんな感じがした。そして、マスターも同じ星に気づいているだろうかと、隣に顔
を向けてみた。
 隣に立つ人影がボンヤリと見えていた。たったひとつのちいさな光のおかげで、周囲は完全
な闇ではなくなっていた。薄闇の中に、マリカは自分の隣を歩く人影を見た。ずっと、自分の
手を握り続けていてくれた人だ。それは、マスターではなかった。マスターより三○センチほ
ど背が高い。マリカよりちょっと低いだけだ。マスターのようにのっぺりとした円筒形の頭で
もない。ふさふさの柔らかそうな髪の毛が一本一本、星の滴をたたえてきらめいている。その
髪の下に丸くて形のいい額があり、それは思いやりに満ちた瞳へとつながり、少し上を向いた
可愛い鼻が顔の中央に陣取り、そして何かを繰り返し繰り返し喋っているらしい唇が見えた。
 目が光を取り戻すのに少し遅れて、マリカの耳に音が戻ってきた。まず聞こえた音は、隣を
歩く少年の声だった。少年は言っていた。
「大丈夫だよ、マリカ。何も心配はいらない。ぼくが君を放さない。この手を決して離したり
しない。だから大丈夫だよ。マリカ。怖がらなくていいんだ」
 少年はそう言っていた。その声が闇の中で絶叫していた時もずっと、マリカの耳に聞こえ続
けていたのだろう。マリカが自分を見失って取り乱した時、その声はずっとマリカを支え続け
ていたのだろう。
 マリカと少年は歩き続けた。星へ向かって。ちいさな光の点へと向かって。
 光は徐々に大きくなる。大きくなっているのではなく、それだけマリカたちが近づいている
のだ。マリカは隣を行く少年に顔を向ける。もう少年の顔ははっきりと見分けられた。見分け
られたのに、マリカはそれを幻だと一瞬思った。ルーワンに良く似ている。けれどルーワンで
はない。彼こそは、マリカが再会したいと願い続けた、彼女にはじめて女の子のときめきを教
えた、あの草原にたたずんでいた少年だった。
 少年もマリカに目を向けていた。彼はマリカの驚くように見開かれた目を見て、はじめて自
分の手足に目を走らせた。そして彼もまた驚いたように目を見開いた。自分に人間の手足があ
ることが、とても意外な様子だった。マリカの手を握っているのとは反対のほうの手で、少年
は自分の顔に触れた。何十年も離れ離れになっていた肉親を捜し当てたような顔になった。瞳
が震える。その瞳からとめどなく涙が流れる。彼は涙を拭わない。何も言わず、ただマリカの
手をギュッと握りしめ、彼は近づく光のほうにすっくと顔を向けながら歩き続ける。何をどう
言葉にすればいいのか、わからないのだろう。ただ彼は自分の体をゆっくりと噛み締めるよう
に自分の手で撫でて行く。それがこんなにも愛おしいものだなんて、彼ははじめて気がついて
いた。この世に宝物というのがあるとすれば、それは自分自身を置いてほかにない。少年はそ
れに気づいていた。少年は宝物を目の前にした人なら、誰でもそうであるように、いっさいの
言葉をなくして、自分の幸運をただ噛み締めていた。

(つづく)




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